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2005.11.26 Satピアッシング [村上 龍]

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殺人衝動を持つ男と、自殺願望のある女の出会い。

殺人衝動を持つ男は、幼い時に母親から残虐な虐待を何度となく受けていた。その後施設に入り、男は大人になった。そして結婚し自らの子を作る。しかし男はその生まれたばかりの赤ん坊を、アイスピックで刺したくてしょうがなくなる衝動に心が犯され始める。このままでは、自らの子を間違いなく刺してしまうと思った男は、別の人間をアイスピックで刺す計画を綿密に練り始める。男は娼婦をホテルに呼び出し刺す事に決めた。計画は完璧な物でなんのミスもないはずだったが、出張マッサージで呼び出した女は、乳首にピアスを刺している自殺願望のある女だった。

私は男の事をなんて残虐で、なんて冷たい男だろうと思いながら読み始めた。けれど読み進めていくうちに、いつのまにか男に同情していた。男は可哀相だったし、哀れでしょうがなかった。娼婦の女の事も、最初は頭がおかしい女としか見ていなかったが、読んでいくうちに女の素直でかわいい所、寂しさ、嫉妬、衝動、いろいろな感情が露出し、私はその女に好意を持つようにもなった。かわいい人だと思った。物語としてはサイコな感じだろうが、男と女が勘違いしている場面は面白くつい笑ってしまったし、女の一方的な男への思いは、もしかしたら恋愛感情だったのではないかと考えてしまった。でもやはりサイコか。男の幼い時の虐待は読んでいて気分が悪くなったし、女も自分自身を切りつけていた。あとがきで村上龍氏は「この男と女は普通の人であり、誰でも起こり得ること」と書いている。私はうまく言えないが、虐待を受けていた子供の心と脳に残る傷は、自分への自虐精神だと思う。子供達はすべて自分が悪かったのだと思っている。自分が悪かったから殴られたのだと思っている。母親父親はどこも悪くはないと思っている。好かれたいと思っている。笑ってほしいと思っている。しかしその後を脅えている。なにかあると疑っている。逃げたいと思っているが、仲間に入れてほしいとも願う。いつになったら虐待はなくなるのだろう。無念です。大人は昔誰でも子供だったはずなのに、忘れてしまうのだろうか。
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2005.11.23 Wedイン・ザ・ミソスープ [村上 龍]

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子供の殺人に原因はないよ。

歌舞伎町で、外国人向けの風俗的な観光アテンドを職業にしている20歳のケンジ。ケンジは援助交際をしていた女子高生が手足と首を切断されて、殺されて歌舞伎町のゴミ収集所に捨てられていたニュースを見ていた。その時一本の電話があった。「ケンジオフィスですか?わたしはアメリカ合衆国からきたツーリストで、名前はフランクといいます」ケンジは、12月の最後の3日間、フランクと共に歌舞伎町でツアーアテンドをする事になった。しかしその3日間は、ケンジにとって、もっとも残酷な3日間になった。

とても恐ろしいはずのストーリがテンポよく進む事により、恐怖ではなく興味に変わってしまう。鮮烈な殺人と暴力の描写がリアルであり、私たちがいる現実との境が曖昧になっていくのが読んでいくうちに現れる。まさにじっくりと皮を剥がされていくような感覚だった。村上龍氏の伝え方はいささか暴力的だが、私はとても興味を持つ。

「子供の殺人に原因はないよ、幼児が迷子になるのに原因がないのと同じだ、親が目を離したから?それは原因じゃなくて子供が迷子になる過程の1つにすぎない」
posted by:18:09 trackback:0 comment:0 

2005.11.22 Tue最後の家族 [村上 龍]

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家族について書かれた残酷で幸福な最後の物語。

この小説は、救う、救われるという人間関係を疑うところから出発している。誰かを救うことで自分も救われる、というような常識がこの社会に蔓延しているが、その弊害は大きい。そういった考え方は自立を阻害する場合がある。

長男の引きこもりに始まり個人個人のドラマと成長がある。個人と家族の繋がりも最初は悪い意味で根は深く、がんじがらめに絡まりあいながらも互いが互いの根を切らぬように甘えあって共存していた。家族とはいったいなんなんだろう。個々の自立は必要だと思うが、なら家族が家族である意味があるのだろうか。互いの価値を見失いながらも夫婦として子を育てながら家族として暮らす。その意味は経済、生活において互いが欠けると成り立たないからだろうか。結婚することで個人が背負い込むリスクや家族を作る責任の重さを結婚する前から(ばれている)そんな時代であるからこそ「結婚と家族」について今問われているのだろう。結婚や家族に幻想を抱いていた昔とは違う。この「最後の家族」のように家族がそれぞれでいい形、望む形で自立するのは簡単じゃない。互いの根が絡まりあっていたのでは葉はなかなか育たないが、個々に1株1株のスペースがあると大きな木に育つ。なにも無理やり1つの鉢に押し込めなくてもいいのだ。しかし甘えは体の奥にしみこんでいて、根を絡ませようとする。誰かがそれを言い出すことによって自立を妨げる。みんな誰かに甘えたいんだ。実は自分を解ってほしいと思っていた事を気づく事ほど情けないと思った。誰かを救う事が自分の優越感や自己満足でしかないのなら「救う」とはいったいなんだろうか。間違いなく「救った気分」を感じているだけだろう。そこには本当に救われた人などいない「救われた気分」を感じている人がいる。

私は自分の父親、母親のすべてを知っていると思っていたが、知っているのは彼らの人生の一番意味のない時間なのかもしれない。輝いていた時を見た事がないのは当たり前だが、想像すらできないのは少し悲しい。
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2005.11.13 Sunダメな女 [村上 龍]

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小説ではなくエッセイです。

あいつダメな女だなあ、と言うとき、わたしたちはどういう女を想像するだろうか。20年ほど前までは、炊事洗濯ができない主婦をそう呼ぶことが多かった。今はどうだろうか。どういう女をダメな女と呼ぶのだろう。

このエッセイは「I.m」「CLASSY.」という雑誌に1997年~2001年まで掲載されていました。内容は村上龍氏的に思う「ダメな女」がいろいろな形で書かれています。私はまずタイトルを見てどきっとしました。こんなにもはっきり「ダメな女」と書かれていると、まるで自分の事を言われている気分になり(私だけでしょうか)いや、大抵の女性が思わず目を逸らしたくなり、私はダメな女でしょうかと問いさせる本です。
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2005.11.12 Sat昭和歌謡大全集 [村上 龍]

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彼らはそれをパーティと呼んでいるが、常識的なパーティとは雰囲気が違った。

この物語は若者達の集まり(パーティー)から始まる。しかし若者達は互いに何の関心もなく、ただ集まっているだけの何も意味のない時間を過ごす。ある日そのうちの若者1人がさしたる理由もなくおばさんを殺してしまうのだが、物語はそこから急激に変貌し、若者対おばさんの命をかけた攻防戦が始まる。そしておばさん達はおばさん達で無意味な集まりがある。おばさん達はただ名前が同じとだけの理由で集まった「ミドリ会」だった。そしてミドリ会のおばさん達も若者達と同じく意味のない時間を過ごしていたが、仲間のおばさんを殺されたことによりミドリ会の集まりが意味のあるものになり、次第に結束も向上していく。しかしそれは若者達も同じだった。

お互い殺しあうことで生きがいを見出していくのは非常に村上龍らしいです。殺し合いを続けていくうちに今までなかった連帯感を仲間に感じるのは、「殺す」ことを省いても解る感情だなとも思いましたし、いっそ「殺す」ということにはまったく意味はなく感じることもできたような気がします。ようはこれがスポーツでも何でも十分成り立つ話なのですが、あえて「殺す」ということに執着したのは村上龍くさいって事ですね。完全にブラックです。最後は若者が勝ったけれど、おばさんがまだ残っていますね。さて。
posted by:18:13 trackback:0 comment:0 

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